小田原かまぼこ

小田原かまぼこ

肌ツヤが良く、きめが細かく、弾力ある歯ごたえがあることが、小田原蒲鉾の特徴です。現在も小田原蒲鉾協同組合の組合員である11社により、
この伝統の味と技術を守り続けています。

小田原かまぼこの歴史

神功皇后とかまぼこ

「かまぼこ」のおこりはたいへん古くはっきりとしたことはわかりません。
おそらく日本人が歴史上に現れた太古の昔からすでに存在していた魚肉の料理法であったと思われます。言い伝えとして、神功皇后が神戸の生田神社で、魚肉のすり身を鉾の先に塗りつけ、焼いて食べたのがおこりであるというような極端な話も伝えられています。

書物に出てくるのは室町時代

「かまぼこ」が書物に現れたのは、室町時代の中ごろからです。そのころの古い書物に『かまぼこは蒲のほこに、にせたる物なり』と書かれてあるところから、河原に育つ蒲の穂に似ているので、「かまぼこ」と言う名が おこったのだと言われています。また、そのころのその他の書物にも蒲鉾の文字があり、このころにはすでに「かまぼこ」が作られていたことがわかります。

初期のかまぼこは焼きちくわ

昔のかまぼこが現在の焼きちくわによく似ているということは、そのころの書物に出てくる蒲の穂に似ているという記事から想像することができます。すなわち、昔は魚肉をすって木や竹の棒に塗り、そのまま焼いて蒲の穂のようにしたのです。

板つけかまぼこは室町時代

板つけかまぼこのおこりもはっきりとしたことはわかりません。しかし、室町時代の古い書物に『板に付やうはかさをたかく、(中略)あぶりやうは板の方よりすこしあぶり』と書かれており、現在の小田原の蒸しかまぼことは少し違いますが、焼き抜きかまぼことして、室町時代にはすでに作られていたことがわかっています。

蒸しかまぼこは幕末に登場

江戸時代のおわりごろになると、蒸しかまぼこが登場します。そのころの書物には『三都ともに杉板に魚肉を推し蒸す、けだし京阪にては蒸したるままをしらいたという多くは蒸して後焼いて売る、江戸にては焼いて売ることこれ無く、皆蒸したるのみを売る』と書かれています。このように江戸地方では焼き板がすたれて蒸し板ばかりになり、特に、小田原式の白かまぼこは江戸好みの代表となり発展しました。小田原生まれの二宮尊徳が手土産に使ったことが江戸末期の日記に書かれています。

小田原かまぼこ十か条

小田原と言えば蒲鉾、蒲鉾と言えば小田原・・・ということは、地場産業という言葉だけでは簡単に説明し尽くせない重みや責任がいつも存在しているということです。そこで、私たち、蒲鉾の製造販売に携わる者は、小田原蒲鉾の何たるかを改めて熟考して他地域との違いを確認し、加えて、企業としてのあり方を厳しく問いながら、ここに小田原蒲鉾十か条を制定し、これまでと同様、いえ、それ以上に、小田原蒲鉾の歴史と伝統を守りながら、小田原蒲鉾の発展や品質保持に努力することを誓います。
  1. 小田原蒲鉾たる品質を守るための努力を怠らず、その品質については、企業同士の理解を得ることができること。
  2. 原材料、副原料などすべてを吟味し、小田原蒲鉾の名をけっして辱めないこと。
  3. 原魚の持ち味を生かして高たんぱくの製品を製造していること。
  4. 板付け蒸し蒲鉾であること。(リテーナ成型蒲鉾は除く)
  5. 小田原蒲鉾本来の製法・技法・技術を頑固に守り、将来もそれを尊重する意思を持っていること。
  6. 小田原市に本社が登記され、なおかつ経営に拠点が小田原市にあること。
  7. 小田原市内に自社の製造工場を持つこと。小田原以外に製造工場がある場合は、必ず自社工場であること。
  8. 小田原の蒲鉾業者としての歴史を50年以上有し、周囲からも同業者からも広く認知されている企業であること。
  9. 小田原蒲鉾を大切にする信念をもつ経営者が携わる企業であること。
  10. 小田原蒲鉾協同組合の組合員であること。
以上十か条を遵守した上で、蒲鉾に含有される必須アミノ酸の量を化学的に測定し、基準をクリアしたものを、小田原蒲鉾として認定する。

ページトップ